有らば即ち書楼を起てよ、無くば即ち書櫃を致せ 金言童子教
アらばスナワちショロウをタてよ、ナくばスナワちショキをイタせ
金のある者は立派な書庫を、ない者は書物を納める箱をこしらえよ。貧富にかかわらず、書物は常に大切にして座右に置き、見るべきものであることをいう。
四海困窮せば天禄永く終えん 書経
しかい こんきゅう せば てんろく なが おえん
天下万民に困窮を強いるようなことがあれば、天が与えた幸運は永久に途絶えるであろう
四海困窮 とは・・・
世の中、みんなが困っている、という意味です。
【四海】は、四方の海のことで、自国を含めて全ての世界のことを言います。
【四海困窮】は、『論語』の一番最後の篇「堯曰:ギョウエツ」にでています。
「堯曰篇」には為政者のあるべき姿が述べられています。
堯(ギョウ)曰く、咨(ああ)爾(なんじ)舜(シュン)、
堯が(帝位を禅譲しようとして次のように)言いました、ああ舜よ
天の暦数(レキスウ)爾の躬(み)に在(あ)り。
天の命数、すなわち帝位につくべき順番が汝に下ったようだ。
允(まこと)にその中(チュウ)を執(と)れ。
帝位に就いたならば、一方にかたよらない中正の道を堅く守り通して行け
【四海困窮】せば、
(万一中正の道を失って)天下万民に困窮を強いるようなことがあれば、
天禄(テンロク)永く終えん。
天が汝に与えた幸運は永久に途絶えるであろう。
為政者自身の身の持ち方も記載されています。四つあるそうです。
1) 寛大であること
2) 信用されること
3) 敏速に事を行えること
4) 公平無私であること
このあと弟子の子張(シチョウ)が孔子に尋ねました。
どのような人物ならば政治に従事することができましょうか。五つの徳を尊重することだ。
1)恵み深いが浪費はしない。
2)人民に労働を命じても怨みを買うようなことがない
3)欲望はあっても足ることを知って貪ることがない。
4)泰然としているが少しも驕った所がない。
5)威厳はあるが猛々しさがない。
しつこい坊主に檀那が無い
しつこい者は人に嫌われる
だんな【旦那・檀那】
- 1.
成人男性に対する(軽い)敬称。
- (一家を取りしきる)主人。 「大家(たいけ)の―衆」
- 夫。
- めかけの主人。
- 商人・芸人などが男の客を指して言う称。
- 目上の男の人に使う称。2.
- 仏教用語
僧から見て、財物を布施する信者。施主。檀家(だんか)。
晋秦の好 春秋左伝 28−01−30
しんしん の よしみ
仲間としての固い結びつき
【解説】
「秦晋之好」とは、簡単に言えば、政略結婚を意味します。
春秋時代、秦と晋は、ともに大国でした。
晋献公は、秦との関係を強化すべく、自分の娘を秦穆公に嫁がせました。
秦穆公の夫人ということで、秦穆夫人、もしくは、穆姫と呼ばれます。
晋献公は、晩年、中国四大妖姫の一人、驪姫に、骨抜きにされてしまいました。
驪姫は、自分の息子である奚斉に王位を継承させるために、献公の前で、さんざん太子申生の悪口を言います。
結局、太子は殺されてしまいました。
更に、献公の息子である夷吾と重耳を、追い出してしまいます。
献公が亡くなると、驪姫の思惑通り、奚斉が即位しますが、その奚斉も、臣下に殺されてしまいました。
そして、夷吾が呼び戻されることになります。
その際、秦穆公に、護衛の兵を出してもらいました。
その条件として、無事、晋に戻り、国王になった暁には、五城を割譲してそのお礼とすることを約束していたのですが、晋惠公となった夷吾は、すっかり反故にしてしまいました。
秦穆公は、怒り心頭ですが、仕方ありません。
その後、晋に飢饉が発生しました。
夷吾は、背に腹は代えられないため、秦に援助を求めます。
秦穆公も旧怨を忘れて、援助しました。
ところが、翌年、秦が飢饉に陥ると、晋は一切の援助を行いませんでした。
これに対し、さすがの秦穆公も我慢できず、自ら晋を攻め、晋惠公を捕虜としました。
この際、晋惠公を殺すのであれば、私は自害すると言ったのが惠公の姉であり、穆公の后(きさき)であった穆姫でした。
これには、穆公も困ってしまい、結局、再度、晋と講和することになります。
そして、晋の土地を割譲しただけでなく、太子の子圉を秦へ人質として差し出し、穆公は、同族の娘、懐嬴をその妻として嫁がせました。
完全に政略結婚です。
ところが、子圉は、その妻を置いて、晋に逃げ帰ってしまいました。
もう無茶苦茶です。
その後、惠公が亡くなり、子圉が、晋懐公として即位します。
ただ、非常に乱暴な性格で、忠臣を殺害するようになりました。
ちょうどその頃、各地を放浪の上、秦にやってきたのが重耳でした。
重耳の博学で誠実な性格を気に入った穆公は、懐嬴を再度、重耳に嫁がせ、晋の国王にすることを決心します。
秦穆公に守られて、晋に戻った重耳は、懐公を殺して即位し、晋文公となりました。
その後、秦と晋は、良好な関係になりました、というお話です。
この秦と晋の良好な関係のことを「秦晋之好」と言いました。
ちなみに、その関係が良好であった期間は、6年間だったと言われています。
この国の人たちが、そう簡単に、仲良くなれるものではありません。 芙蓉峰の如是我聞
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