2016年1月8日金曜日

故事成語強化のための新たなお勉強  1

目次

奥に媚びんよりは竈に媚びよ 

甑中塵を生ず 

信、豚魚に及ぶ 易経  

人中の騏驥 

怒蛙に式す

白虹日を貫く 

輦轂の下 


鴇羽の嗟き

怒猊の石を抉るが如し 

文籍腹に満つと雖も、一嚢銭に如かず 


瓊瑶は少なきを以て貴なりとし、石礫は多きを以て賤しとす 

膏燭は明を以て自ら鑠く 

麒喩の独覚


会うや柳因別るるや絮果 

鼎俎を免れず 

五噫を歌う 

讒臣国を乱し、妬婦家を破る

川淵深くして魚鼈之に帰し、山林茂れば禽獣之に帰す 

千雀万鳩、鷂と仇を為す 

虎嵎を負う 

精を得て麤を忘る 

誦数以て之を貫く 

越鶏は鵠卵を伏す能わず 

衛の懿公の鶴 

盈満の咎 

乳狗虎を搏ち伏鶏狸を搏つ

田鼠化して鶉となる


寿夭天にあり


崑山玉を出だし麗水金を生ず 

鷹鳩変ぜず  


蓼虫は葵菜に徙るを知らず 

賁諸錐刃を懐けども天下勇と為す 


このたび,縁があって,キラジェンヌ株式会社から,混合診療の危険性に説明した「医療の未来」を発刊しました.まあ,問題は世間に受け入れられるか,どうか.
 受け入れられず,沢山在庫が残るようなら,私も,五噫を歌う」ことになるだろうな.
 
註)五噫を歌う:この章の真ん中よりちょっと下にあり


奥に媚びんよりは竈に媚びよ (論語)

おう に こびん よりは そう に こびよ


仁や義など、人として生きる為の必要な徳を大切にするよりは、食うために必要なものやお金を大事にするように,ということ

訓読、すなわち読下し文です。

王孫賈おうそんか、問うて曰わく
の奥おうに媚びん与りは、
むしろ竈そうに媚びよとは、
んの謂いぞや。
わく、然しからず、
つみを天てんに獲れば、
いのる所ところき也なり

 次に、その現代訳(直訳)です。

 王孫賈おうそんかが孔子に質問した。
「『部屋の奥の神様に媚びへつらうよりは、
かまどの神様に媚びよ!』とは、
どういう意味でしょうかね?」と。

 孔子がこたえた。「そうではありません!」。
「もし、私が天のとがめを受けるような行為をしたならば、
どこにも禱いのる所などありません。」と。

 続いて、吉川博士の解説です(筆者が一部加筆・修正しています)。
・王孫賈おうそんかとは衛の君主霊公れいこうの重臣であり、3人の賢臣のうちの1人で、軍旅すなわち軍事のかかりであった。
「左伝」の定公八年には、霊公が大国の晋から侮辱を受けたとき、この人物(王孫賈おうそんか)が、その非礼をやりこめ、且つ国論を統一して、晋しんの侮辱に対抗したことを記す。

・ところでこの条では、その人物(王孫賈おうそんか)が、おかしな発言をして、孔子にやり込められている。

・「其の奥おうに媚びんよりは、寧むしろ竈そうに媚びよ」。これは当時にあったことわざである。すなわち竈そうとは、いうまでもなく「かまど」であるが、それは家の中の重要な存在であるゆえに、祭祀さいしの対象でもあった。

その祭りをする場合には、まず竈かまどそのものの前で祭りをしたうえ、奥おうといって、うちがわの部屋の西南の隅、といえば家屋の一番奥まったところであるが、そこでもう一度その神霊を祭りなおすのが、掟であった。

2つの場所で、かまどの神を、2度祭ることから、生まれたのが、この諺である。奥おうのところで、丁寧にするよりも、竈そうそのもののところで、丁寧にしろ、というのが、その意味であり、諺だから、奥おう、竈そうと、脚韻をふんでいる。

・王孫賈おうそんかが孔子に問いかけたのには、底意があった。すなわち、竈かまどをもって、権力ある重臣の自己にたとえ、奥をもって、孔子の親しかった衛えいのくにの奥むきの家来にたとえた、と、古注にはいう。

つまり衛の霊公に接近して、その政治の理想を、実行にうつそうと考えていた孔子に対し、床の間よりも、へっついが先だということわざがありますが、ありゃどういう意味でしたかね、と問い、あんたも、へっつい、すなわち実権者であるわたしを、もうすこし大事にしたら、と、王孫賈おうそんかはなぞをかけたことになる。

・孔子はこたえた。然しからず、そうではありません。はっきりした拒絶の言葉である。もしわたしが、こそこそと変なことをしたならば、わたしは人格を喪失したものとなり、最高の神である天に、罪を獲るでありましょう。

つまり、天の罪人となり、天から見放されるでありましょう。天から見放されたものは、竈かまどのところで禱いのろうとも、奥のところで禱ろうとも、効果はない。つまり、禱るべき対象のない人間となる。わたしはあなたの呼びかけに応ずることはできない。

・この条は難解であるが、天とは君であるとする古注の説には、とにかく従わなかった。
 「古注の説には、とにかく従わなかった。」
と吉川博士はおっしゃる。

 そこで私も吉川博士の解説に従わず、「角川新字源」を検索して直訳を試みはしたものの意味不明!
 それに、理想の政治を目指す孔子にしては何や!?

コミュニケーションに関する1丁目1番地(基本)に違反している!
つまり、相手の言葉を「然しからず!」と、
いきなり打ち返しているではないか!
などと首を傾げた読者は、最後まで読み続ける意欲を殺がれたのでは? という思い、
すなわち老婆心(不必要な親切心or罪悪感?)を覚え、
筆者がこの記事を書くにあたり検索した字句の一部を、「角川新字源」から転載して以下にお届けします。

【媚於竈】かまどにこぶ かまどの神にこびへつらう。主権者よりも実力者にこびへつらうたとえ。〔論・八佾〕

【竈】ソウ 意味①かまど。へっつい。②かまどの神。五祀ごしの一つ。〔論・八佾〕「与其媚於奥、寧媚於竈」

【不然】ふぜん ①そうでない。②命令に従わない者。〔左伝荘二四〕「征伐以討其不然」

【穫罪】かくざい 罪を得る。とがめを受ける。〔論・八佾〕「獲罪于天、無所禱也」






甑中塵を生ず  (後漢書)

そうちゅう ちり を生ず

貧しい生活をする




土器製の「蒸籠(せいろ)」甑の底に簀の子(すのこ)を置いて、水を張った甕の上に載せて米や穀類等を蒸した。中国から朝鮮半島を経て3~4世紀にかけて伝来した調理法。5世紀には土師器や須恵器で作られる様になった。http://www.qryo.net/remains002.html



信、豚魚に及ぶ  易経)  

シン トンギヨ ニ オヨブ

誠実な心がつまらない者にも伝わる

信義の力は、言葉や感情の通じないはずの豚や魚にも感情(感動)を伝える事ができますよ。(信義は、偉大なものである。 )


人中の騏驥  (南史)

じんちゅう の きき

「騏驥」は名馬の名
特に傑出した人物。人中の獅子(しし)。人中の竜。




怒蛙に式す (韓非子)

どあ に しきす


部下を奮い立たせて使うためには、些細なことを見出して褒める、ということは大切である。

 越の名君、勾践があるとき馬車に乗って外出すると、一匹の蛙が飛び出してきて、車に向かって飛びかかってきた。すると勾践は、恭しく敬礼したというのである。
 部下が、その理由を尋ねると、蛙のその気力に敬意を示したのだと答えた。


 これを、聞いた部下たちは、わずかな勇気のある行為でも王は評価してくれるのだと考え、命を捧げることを誓う部下が続出したというのである。

もうひとつ
ほめるだけでも、人を殺すことが出来る例え。
 越王勾践は呉を討とうとして、人々が勇んで死んでくれることを望んだ。
 或る時馬車に乗って外出した時、怒って一匹の蝦蟇が向かって来るのを見て、それに敬礼をした。従者がわけを聞いたら『蝦蟇が勇気を持っているからだ』と言った。

 人々はこれを聞くと蝦蟇でもこれほどだから、勇気のある人はなおさら尊敬されるだろうと思い、翌年は自分の首を王に献上したい、と言う者が十人も余りも出たと言う故事に基ずく。
漢書 2故事成語考>6>韓非子


白虹日を貫く (戦国策)

白虹(はっこう)日(ひ)を貫(つらぬ)・く

兵乱が起こり、君主に危害を加える予兆


白い虹が太陽を貫いてかかる。白い虹を兵の、太陽を君主の象徴と解釈することによって、兵乱が起こり、君主に危害を加える予兆とされた。




丙丁に付す   (王陽明)

へいていにふす

文書などを焼き捨てる

火の中に投げ入れること。特に秘密の手紙や書類を焼くことをいう。十干で丙は火の兄(ひのえ)、丁は火の弟(ひのと)と呼ばれ、どちらも「火」の意味を持つことから。



輦轂の下  (司馬遷)

れんこく‐の‐もと

天子のおひざ元。皇居のある地。首都





鴇羽の嗟き (詩経)
ほうう の なげき

鴇羽之嗟 ほうう の さ

臣民が征役のために苦労して、その父母を養うことができない嘆き

臣民が征役のために苦労して、その父母を養うことができない嘆き。「詩経」唐風の鴇羽編に時世を風刺した詩があるのでいう。


怒猊の石を抉るが如し (唐書)

どげい の いし を えぐる が ごとし

文字に筆勢があるたとえ


[意味] 怒った獅子が石をえぐる。文字に筆勢があるたとえ。 [注記] 「猊」は獅子。

P.162

こんなTシャツもあるのですね.日本製で,日本で売られているものです.


文籍腹に満つと雖も、一嚢銭に如かず   (後漢書)

ぶんせきはらにみつといえども、いちのうせんにしかず

たくさんの物事を知っていても、実行しなければ価値はない

---お腹がいっぱいなほど蔵書があっても、ひと袋のお金よりも価値はない、との意味だ。中国二十五年史の一つ『後漢書』にある言葉で、いくらたくさん物事を知っていても、実行しなければ大きな価値はない、と説く。
その通りだ。いくら文献に通じていても、実行につながらなければ、会社にも株主にも社会にも、貢献できない。PRESIDENT (プレジデント) 2010年 6/14号 P.95


瓊瑶は少なきを以て貴なりとし、石礫は多きを以て賤しとす (明文抄)

数少ないものが尊ばれることのたとえ

「瓊瑶(けいよう)は少なきを以て貴なりとし石礫(せきれき)は多きを以て賤(いや)しとす」という故事が出てきた。故事ことわざの辞典で調べると、《「瓊瑶」は美しい玉》 美しい玉は数が少ないため尊重され、石ころはいくらでもあるから大切にされない。数少ないものが尊ばれることのたとえ。 OCTAVE


膏燭は明を以て自ら鑠く (後漢書)

膏燭(こうしょく)は明(めい)を以って自ら鑠(と)く 出典:「後漢書-馮衍伝・上」


才能や長所のために災いを招き、身を滅ぼす


麟喩の独覚  (愚禿上 P.502) 

麟喩独覚 りんゆどくかく

  仲間をもたず一人だけで修行する独覚。麒麟(きりん.元来は犀
さい。漢訳者が麒麟と同定)の角が一つであることに喩えていう。(愚禿上 P.502)


会うや柳因別るるや絮果  (滝口入道)

会うや柳因(りゅういん)別(わか)るるや絮果(じょか)

柳因([柳])の縁であなたと逢い、絮果([柳絮]=[綿毛をもった柳の種])の報いで別れることになった



鼎俎を免れず  淮南子

ていそにまぬかれず

死ぬ運命にあるたとえ


五噫を歌う 後漢書

五噫(ごい)を歌う

世間に認められないことを嘆くたとえ

「世間に認められないことを嘆くたとえである。「噫」ああと嘆息する声。」 「噫」は音訓異義異読で、ここでは「ああ。嘆息。」なので、「イ」と音読みします。OCTAVE


讒臣国を乱し、妬婦家を破る

讒臣(ざんしん)国を乱し妬婦(とふ)家を破る

他人を 悪く言って主君に告げ口をする臣下がいれば国は乱れるし、嫉妬深い女は家の平和を壊すもとになる

「他人を悪く言って主君に告げ口をする臣下がいれば国は乱れるし、嫉妬深い女は家の平和を壊すもとになる。「讒臣」事実を曲げ偽って他人の悪口を主君に告げる臣下。「妬」やきもちをやくこと。」 前回の検定に「老いてトフの功を知る」が出題された。OCTAVE



川淵深くして魚鼈之に帰し、山林茂れば禽獣之に帰す  荘子

せんえん ふかくして ぎょべつ これ きし さんりん しげれば きんじゅう これに きす


刑罰が正しいと民衆たちが集まり、礼儀が備わると君子たちが集まる

川淵(せんえん)深くして、魚鼈(ぎょべつ)之に帰す。

有徳の君主の下には、有能な臣下や多くの人民が自然に集まってくるのたとえ。「川淵」・・・川の特に深くなって水をたたえている処。「魚鼈」・・・さかなとすっぽん。川の淵が深ければ、自然多くの魚が集まる意

<出典>川淵深ケレバ而チ魚鼈之ニ帰シ、山林茂レバ而チ禽獣之ニ帰シ、刑政平ラカナレバ而チ百姓之ニ帰シ、礼義備ハレバ而チ君子之ニ帰ス。[荀子・致士]


千雀万鳩、鷂と仇を為す  (抱朴子) 

せんじゃくばんきゅう  よう と あだ を  なす

弱い者が大勢いても強い者にはかなわない

「鷂(よう)」はワシタカ科の小形のタカのハシタカ。千羽はスズメ、万羽の鳩がいたとしても、ハシタカにはかなわない。弱い者が大勢いても強い者にはかなわないという意。



虎嵎を負う  (孟子)

とらぐう を おう

地方の豪族がその地に立てこもって勢力の盛んな状態

虎が山の一角を背にしてかまえる。
転じて、勢力のある英雄が一地方にたてこもって勢いを振るうたとえ。
また、非常に勇猛なさま。


p.140




精を得て麤を忘る  (列子)

物事の本質をとらえ、無駄なことに囚われない


誦数以て之を貫く  (論語) 

誦数(しょうすう)以(もつ)て之(これ)を貫(つらぬ)く

繰り返し読むことで、書物全体の意味を理解することができる

故事ことわざの辞典によると、「何度も何度も繰り返し読むことによって、書物全体の意味を理解することができるということ。」


越鶏は鵠卵を伏す能わず  (荘子)

えっけいは こくらんを ふくす あたわず

人の才能には差があり、才能を超えた大きなことを求めてもできない


意味
越の鶏は小型なので、白鳥の大きな玉子を温めることは不可能な事から

人の才能には大小の差があり、才能を越えた大きな事を求めても無理。

「越」は昔、中国の東南にあった地方の古名。
「鵠」は白鳥。

「伏す」卵を抱いてかえす意味。


衛の懿公の鶴   (春秋左伝) 

えい の いこう の つる


度を過ぎた動物好きは身を滅ぼす

(春秋左氏伝)
 衛の懿公は鶴が大好きだった。これの養育費には巨額の費用を掛け、徳に見事な鶴には官位を与えたり、車に乗せて連れ歩いたりしていた。
 魯の閔公の二年、狄が衛へ攻め込んだ。懿公が迎撃しようとしたところ、武器を与えられた兵士達は口々に騒いだ。「俺達には官位もないし、出入りに車も付かない。鶴に戦わせればいいじゃないか。」
 結局、衛は狄と戦って敗れ、国が滅んだ。


(博議)
 衛の懿公は鶴好きが高じて国を滅ぼした。たかが禽獣を玩んで国中の人心を失った為だ。このくだりを読んだ人は、その愚行を嘲笑するに違いない。しかし、私はこれをもっと重く見ている。 

 そもそも、世間の人々は、ただ頭に朱を戴いて羽白く二本足のもののみを「鶴」と呼んでいる。だが、高尚な理論を戦わせ、皆から尊敬されているが、実務には全く役に立たない者も、外見こそ人間であるが、その実「懿公の鶴」とどこが違うと言うのか。

 戦国時代の斉では、学者を大切にした。稷下には常に大勢の学者が養われ、大臣になる者、大冠長剣を身につけ我が物顔でのし歩く者が横行し、その理論は精緻を極めた。ところが、卓(正しくは水/卓)歯が斉王を虐殺した時や、秦兵が斉を滅ぼした時など、その国難に力を尽くそうとした者はただの一人も居なかった。彼等も又、「懿公の鶴」である。 

 文学好きの後漢の霊帝は、文章の巧い学生達を抜擢して鴻都門下にて特待した。この時には自分の能力を売り込む者が殺到し、大勢の者が爵位や官位を授かった。さて、彼等は定めし立派な国策を制定してくれるかと思いきや、「黄巾の賊」で天下が鳴動した時、有効な献策をする者や自ら矛を執る者など一人も居なかった。彼等も又、「懿公の鶴」である。
 西晋の懐帝の時、清談に耽る者が朝廷に満ちあふれた。一觴一詠、万物を傲慢に見下し、自ら高尚ぶって雅のみを至高のものと讃えていた。五胡が侵入するや、西晋はあっけなく滅んだ。彼等も又、「懿公の鶴」である。 

 梁の武帝の時、朝廷の臣下達は朝に仏教を論じ、夕に道教を談じ、あちこちで講釈会が開かれ、何かと言えば形而上学の論争が始まるのが時代の風俗だった。一旦、侯景がクーデターを起こして首都に迫るや、惰弱に馴れきっていた士・大夫達は馬に跨ることさえできない有様。結局、手を束ねて殺戮を受けるしかなかった。彼等も又、「懿公の鶴」である。 

 この数カ国で、平日尊用している者達は、確かに弁は立ち、文章は巧い。外見の押し出しがよいし、議論を聴けば緻密でもある。それは確かに嘉すべく、仰ぐべく、慕うべく、親しむべきだろう。しかし、一旦災厄が起これば、それを乗り越える為には何の役にも立たず、「懿公の鶴」に異ならない者はほとんどいない。どうして懿公のみを嘲笑できるだろうか。

 いざとゆう時に必要な人間は日頃寵用しておらず、日頃寵用している人間はいざとゆう時役立たない。彼等は、親しい者に楽をさせ、疎い者に危険なことをやらせている。あるいは、「貴き者は利益を享受させるだけで、賤しい者は害を受けるだけ。」とゆう有様だ。このような風潮がまかり通れば、必ず懿公と同じ禍を受けてしまうに違いない。
 更に、私に深く考えさせる事がある。 

 鶴は確かに禽類だが、その名は易経に載り、詩経に播かれ、詩人墨客の諸作品に雑出する。その人々が尊重する有様は、凡禽の比ではない。それでさえ、懿公がこれを御輿に乗せて喜ぶようになると、国中がこれを怨んだ。彼等はきっと、この鶴達を鴟や梟のように忌み嫌っただろう。これは、鶴に対する愛憎が急変したのではない。その居場所が正しくないから憎んでしまったのだ。 

 鶴は、もともと人々から貴重かられている禽である。それでさえ、居場所を間違えると、ここまで忌み嫌われてしまうのである。いやしくも他の禽獣が、その居場所を間違えると、どのように思われるだろうか。そう思うと、慨嘆の他ない。





盈満の咎  (後漢書)

物事が満ち足りると、かえって災いを招きやすい



乳狗虎を搏ち伏鶏狸を搏つ   (古列女伝)

にゅうく とら を うち ふく けいり を うつ 


親は子への愛のためには弱い者も強くなる

【類義語】焼け野の雉夜の鶴



田鼠化して鶉となる  (礼記)

でんそかしてうずらとなる

鶉が畑の麦の根元に巣くって、しきりに鳴く晩春の季節を表したことば。

晩春の季節を表したことば

七十二候のひとつ。清明の第二候、陽暦四月十日~十四日までの
あいだ。田鼠はもぐら、うづらはフナシウヅラ。もぐらがうづら
になるという実際にはありえないことだが、春になり地中のもの
が地上に出て活動すると考える事ができる。

【類義語】雀海に入りて蛤となる / 山の芋鰻になる / 腐草化して蛍となる / 鷹化して鳩となる



寿夭天にあり

じゅよう 天にあり

長生きするか若死にするかは天しだいである

じゅよう[寿夭]

長寿と夭折(ようせつ)(=若死ニ)。 「富貴-我に於て何かあらん/欺かざるの記 独歩



崑山玉を出だし麗水金を生ず   (湘山野録) 

こんざん ぎょく を いだし れいすい きん を しょうず

優れた家系や立派な親からは立派な人物や子が生まれること

・優れた家系からは立派な人物が出ることのたとえ。
 ・立派な親にはよい子ができるというたとえ。
 ・崑山は名玉を産し、麗水は砂金を出すということから。
 ・「崑山(こんざん)」は、崑論山(こんろんざん)。中国西方の伝説上の霊山。
  美玉の産地として有名。
 ・「麗水(れいすい)」は、湖北省にある川の名。差金を出すことで有名。



崑山の下、玉を以て鳥を抵つ

こんざんのもとたまをもってとりをうつ

 ・貴重なものでも、沢山ありすぎると価値がなくなるというたとえ。
 ・崑山のふもとには名玉が沢山転がっているので、そこに住んでいる人は鳥を
 打ち落とすのにも、玉を投げているという意から。


鷹鳩変ぜず  (世説新語) 

ようきゅう へんぜず

そのものが持つ本性は隠しようがないたとえ


寸膠は黄河の濁を治する能わず

読み:すんこう は こうが の だく を ち する あたわず

意味:すこしの力では、大事を成し遂げることはできない



蓼虫は葵菜に徙るを知らず 楚辞

リョウチュウ葵菜(きさい)に徙(うつ)るを知らず

それぞれ自分の好みに従って、他へ心を移さない

25-③ リョウチュウ葵菜(きさい)に徙(うつ)るを知らず。
23-③ リョウチュウ辛を忘る。

蓼虫

蓼(たで)につく虫は、手近に葵(あおい)という味のいい甘菜があれば、そっちへ移りそうなものだが、そうはしない。他人が「ああしたらいい、そうしたらどうだ」などと言っても聞き入れない。人の好みは変えられないと。

「氷蚕(ひょうさん)は寒さを知らず、火鼠(かえん)は熱さを知らず、蓼虫(りょうちゅう)は苦さを知らず、蛆虫(しょちゅう、うじむし)は臭さを知らず」。


蓼食う虫=蓼虫
蓼(たで)の葉は辛く、香辛料にする。
蓼食う虫も好き好き。
There is no accounting for tastes.(好みは説明できない)

*蓼虫(りょうちゅう)は苦きを知らず、蝍蛆(しょくしょ)は臭きを知らず。

蝍蛆(しょくしょ)=むかで、こおろぎ

葵菜(きさい)は食用野菜。

を旁に持つ漢字は面倒。

力=りくりょく
勠力=りくりょく
=せきりょう
=ごびゅう
=ちゅうびゅう



賁諸錐刃を懐けども天下勇と為す  戦国策

ホンショスイジンをイダけどもテンカユウとナす

実力は自ずから現れる

「賁諸」は、中国古代の勇士、孟賁と専諸。「錐刃」は、
 先のとがった小さい刀)孟賁と専諸のような勇士は、
 小さな刃物を懐の中に持っただけでも、天下の人が
 勇者と認める。実力はおのずからあらわれるということ。


罔極の恩

モウキョクのオン

「罔」は「無」に同じで、「罔極」はきわまりがないこと、
 無限きわまりない恩。父母の高恩をいう。


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