2014年3月26日水曜日

故事 成語④ 分からないものを調べてみた


内踝は蚊に食われても悪い  蚊のまつげに巣くう  蚤虱馬の尿する枕もと   命は鴻毛より軽し  不遜にして以て勇と為す者   呉牛月に喘ぐ  芻蕘に詢る  山の芋鰻とならず  一粲を博す  勝地定主無し  
普天の下率土の浜  親父の夜歩き、息子の看経  上古は結縄して治まる   尺牘の書疏は千里の面目なり  




内踝(うちくるぶし)は蚊に食われても悪い

ことわざ大辞典によると、「くるぶし、とくに内側のくるぶしに近い傷は、小さなものでも危険であるから、注意しなくてはいけない。」とあった。


蚊のまつげに巣くう かのまつげにすくう

   焦螟/蟭螟(しょうめい) 蚊のまつげに巣くうという、想像上の微小な虫。転じて、ごく小さなもの。



   蚤虱馬の尿する枕もと (のみしらみ うまのしとするまくらもと)

   奥の細道 松尾芭蕉 から 46歳の時の句である。
句意

 この辺鄙な山家では、一晩中蚤や虱に責められ、おまけに寝ている枕元に馬
の小便の音まで聞こえるという、散々な目にあったことだ。


 風雨に災いされて辺境の逗留を余儀なくされたいらだち、わびしさなどの感情を蚤や虱には食われ、寝ている部屋に馬の小便の音まで聞こえてくる山中陋屋の実情に即して形象化している。 

 尿、シトはふつう、子供の小便で、動物の小便はバリというが、ここでは尿前の関にひっかけてシトと読ませ、人と同居するに等しい馬を人並みぬ扱ってユーモア化している。



命は鴻毛より軽し いのちはこうもうよりかろし

 〔司馬遷「報二 任安一 書」より。「鴻毛」はおおとりの羽毛で,きわめて軽いもののたとえ〕
(国家や君主のために)命を捨てることは少しも惜しくない。


不遜にして以て勇と為す者

「不孫にして以て勇と為す者」とは、自分の分に安んぜず、血気に任せて上位に有る人を犯し、不遜・無礼な振る舞いをしながら自分では勇気が有るとする人のことです。


「寒鰤かんぶり、寒鰡かんぼら、寒鰈かんがれい」ということわざがあるくらいだから、その季節にこそ旬で美味しいものの喩えである。

輿馬を仮る者は足を労せずして千里を致す よばをかるものはあしをろうせずしてせんりをいたす
輿馬を仮る者は足を労せずして千里を致すとは、他のものをうまく利用することによって、容易に事をなしとげることのたとえ。


呉牛月に喘ぐ ごぎゅうつきにあえぐ
〔世説新語 言語〕
水牛が暑さを嫌うあまり月を見ても太陽と間違えて喘ぐ意から,取り越し苦労をすることのたとえ。


芻蕘に詢る  すうじょう に はか る
 芻は草、蕘は木で、転じて草刈りと木こりのこと。
草刈りや木こりのような身分の低い者にも、広く意見を聞いて参考にすること。


山の芋鰻とならず  やまのいもうなぎとならず
 世の中にはとてつもない変化などというものはない。


一粲を博す いっさんをはくす
 〔自作の詩文が人に読まれることを謙遜していう語〕
 一笑に供する。

いっ‐さん 【一×粲】
《「粲」は、白い歯を出して笑うこと》ひと笑い一笑


勝地定主無し  しょうちていしゅなし
〔白居易「遊雲居寺贈穆三十六地主」の「勝地本来無二 定主一 」による〕
 
すぐれた風景に,これと定まった持ち主があるわけではないから,誰でもが心ゆくまで賞すればよい。


普天(ふてん)の下(もと)率土(そっと)の浜(ひん)

《「詩経」小雅・北山の「溥天の下(もと)王土に非ざる莫く、率土の浜王臣に非ざる莫し」から》天があまねくおおう所と、地の続く果て。全世界。天下

《「詩経」小雅・北山の「溥天の下(もと)王土に非ざる莫く、率土の浜王臣に非ざる莫し」から》天があまねくおおう所と、地の続く果て。全世界。天下。


親父の夜歩き、息子の看経
 *看経(かんきん)
お経を読むこと。父親が夜遊びをして、そのいっぽう息子がお経を読み仏門に身を寄せるということ。世間一般の常識とかけ離れ、逆であるもののたとえ。



上古は結縄して治まる じょうこはけつじょうしておさまる
周易『繫辭 下傳』第二章(末文)


上古結縄而治、  上古には結繩にて治め、


後世聖人易之以書契、  後世の聖人書契を以てこれを易くし、

百官以治、  
百官以て治め、
萬民以察、  萬民以て察し、


蓋取諸夬。
  けだし諸を夬に取る。




大昔は、縄を結んで伝令とし統治されていた。
後世の識者が、それを文字に代えた。
官僚たちは文字の伝令により治め、人々は内容を理解した。
おそらく、夬の卦から思いついたものであろう。


尺牘の書疏は千里の面目なり(せきとくのしょそはせんりのめんぼくなり)

手紙の文字が上手なのは、千里の遠方にまで誉れを得ることである。文字が上手であることは、はかり知れない利益をもたらすものである。

語:尺牘の書疏=長さ一尺の木板に書いた手紙。達者な文字で書かれた手紙の意味。



故事成語 目次

故事・諺①(新星出版社より)
鷸蚌の争い  綸言汗の如し  兄弟牆に鬩げども外その務りを禦ぐ  華胥の国に遊ぶ  の人、何ぞ算うるに足らんや   焙烙千に槌一つ  飽かぬは君の御諚  阿漕が浦に引く網  飴を舐らせて口をむしる

故事成語②(新星出版社)より
瑾瑜は瑕(きず)を匿(かく)し、 
国君は垢(はじ)を含む   両葉去らずんば斧柯を用うるに至る   凱風南よりして彼の棘心を吹く   槿花一朝の夢   倹約と吝嗇(りんしょく)は水仙と葱(ねぎ)   端倪すべからざる    瑾瑜は瑕(きず)を匿(かく)し、 
国君は垢(はじ)を含む   三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。その無に当たりて、車の用あり。 

故事成語③ (新星出版社)
良賈(りょうこ)は深く蔵(ぞう)して虚(むな)しきが如(ごと)し  人の牛蒡で法事する  舐犢の愛   合羽着て撫でても見たき柳かな   まず黍(キビ)を喰らい、後に桃を喰らう   玉を食らい桂を炊ぐ   杵で当たり杓子で当たる   身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり   朝鳶に蓑を着よ、夕鳶に笠をぬげ    猫の歯に蚤

故事成語④ (新星出版社)
内踝は蚊に食われても悪い  蚊のまつげに巣くう  蚤虱馬の尿する枕もと   命は鴻毛より軽し  不遜にして以て勇と為す者   呉牛月に喘ぐ  芻蕘に詢る  山の芋鰻とならず  一粲を博す  勝地定主無し  
普天の下率土の浜  親父の夜歩き、息子の看経  上古は結縄して治まる   尺牘の書疏は千里の面目なり  


故事成語⑤(新星出版社)
蕨の榾で手を切れば骨まで切れる  逆捩を食わせる  慷概死に赴くは易く、従容義に就くは難し   鋳掛(いかけ)屋の天秤棒(てんびんぼう)   窈窕たる淑女は寤寐(ごび)にこれを求む   臍の緒引き摺る    勧学院の雀は蒙求を囀る   枇杷と焼き魚を一時に食うべからず   嘉善の和は、一味に取るにあらず    藜羹を食らう者は大牢の滋味を知らず   駕籠舁き駕籠に乗らず   花中の鶯舌は花ならずして芳し   羝羊の藩に触る   考えと続飯(そくい)は練るほど良い    苫に寝て土塊を枕とす    翠は羽を以て自ら残なう    毀誉褒貶相半ばす       疏食を飯い水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす    一髪千鈞を引く    辛崎の松は花より朧に   大廈の材は一丘の木にあらず   大行は細謹を顧みず   好んで酒を飲むべからず。微醺にして止むべし

故事成語⑥(新星出版社)

平成20年第3回

平成21年第1回 平成20年第3回
九仞の功を一簣に虧く 積毀骨を銷す 

平成21年 第3回

漢検1級 故事成語 22年度 詳説

漢検1級 故事成語 平成23年度の問題で難しかった所

平成24年第1回

平成24年 第2回

24年第3回

平成25年 第2回 第1回問題より
手臂終に外に向かって曲げず  食前方丈一飽に過ぎず  衆口金を鑠し、積毀骨を銷す   勝地定主無し   田鼠化して鶉と為る   朽索の六馬を馭するが如し   白頭新の如く、傾蓋故の如し   芻蕘に詢る  



 
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 漢字検定 採点 変だ! 令和2年1月20日




2014年3月12日水曜日

辞書116,117ページの整理

こんばんは

 問題をやっていて、分からない漢字が出て来たら、もちろん辞書を調べるtが、この時、見開き2ページをざっと見る事にしている。そして、ノートに書き取っている。

 ゆくゆく、このようなものを作り、暗記に務めたいものだ。このようなものを、パソコン上に作ると時間がかかるものだ。
 でも、アナログでやると、紙が嵩張るし。

 まあ、少しずつだ。


 新星出版社 漢字検定1級問題集 読み⑫をしていたら

「独酌にて、一甕を尽くした」とでてきた

 この甕を漢検漢和辞典で調べると、116ページになった。故に、そこの116,117ページにあった漢字を全部当たってみた。








故事成語 目次

故事成語 目次

故事・諺①(新星出版社より)
鷸蚌の争い  綸言汗の如し  兄弟牆に鬩げども外その務りを禦ぐ  華胥の国に遊ぶ  の人、何ぞ算うるに足らんや   焙烙千に槌一つ  飽かぬは君の御諚  阿漕が浦に引く網  飴を舐らせて口をむしる

故事成語②(新星出版社)より
瑾瑜は瑕(きず)を匿(かく)し、 
国君は垢(はじ)を含む   両葉去らずんば斧柯を用うるに至る   凱風南よりして彼の棘心を吹く   槿花一朝の夢   倹約と吝嗇(りんしょく)は水仙と葱(ねぎ)   端倪すべからざる    瑾瑜は瑕(きず)を匿(かく)し、 
国君は垢(はじ)を含む   三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。その無に当たりて、車の用あり。 

故事成語③ (新星出版社)
良賈(りょうこ)は深く蔵(ぞう)して虚(むな)しきが如(ごと)し  人の牛蒡で法事する  舐犢の愛   合羽着て撫でても見たき柳かな   まず黍(キビ)を喰らい、後に桃を喰らう   玉を食らい桂を炊ぐ   杵で当たり杓子で当たる   身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり   朝鳶に蓑を着よ、夕鳶に笠をぬげ    猫の歯に蚤

故事成語④ (新星出版社)
内踝は蚊に食われても悪い  蚊のまつげに巣くう  蚤虱馬の尿する枕もと   命は鴻毛より軽し  不遜にして以て勇と為す者   呉牛月に喘ぐ  芻蕘に詢る  山の芋鰻とならず  一粲を博す  勝地定主無し  
普天の下率土の浜  親父の夜歩き、息子の看経  上古は結縄して治まる   尺牘の書疏は千里の面目なり  


故事成語⑤(新星出版社)
蕨の榾で手を切れば骨まで切れる  逆捩を食わせる  慷概死に赴くは易く、従容義に就くは難し   鋳掛(いかけ)屋の天秤棒(てんびんぼう)   窈窕たる淑女は寤寐(ごび)にこれを求む   臍の緒引き摺る    勧学院の雀は蒙求を囀る   枇杷と焼き魚を一時に食うべからず   嘉善の和は、一味に取るにあらず    藜羹を食らう者は大牢の滋味を知らず   駕籠舁き駕籠に乗らず   花中の鶯舌は花ならずして芳し   羝羊の藩に触る   考えと続飯(そくい)は練るほど良い    苫に寝て土塊を枕とす    翠は羽を以て自ら残なう    毀誉褒貶相半ばす       疏食を飯い水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす    一髪千鈞を引く    辛崎の松は花より朧に   大廈の材は一丘の木にあらず   大行は細謹を顧みず   好んで酒を飲むべからず。微醺にして止むべし

故事成語⑥(新星出版社)

平成20年第3回

平成21年第1回 平成20年第3回
九仞の功を一簣に虧く 積毀骨を銷す 

平成21年 第3回

漢検1級 故事成語 22年度 詳説

漢検1級 故事成語 平成23年度の問題で難しかった所

平成24年第1回

平成24年 第2回

24年第3回

平成25年 第2回 第1回問題より
手臂終に外に向かって曲げず  食前方丈一飽に過ぎず  衆口金を鑠し、積毀骨を銷す   勝地定主無し   田鼠化して鶉と為る   朽索の六馬を馭するが如し   白頭新の如く、傾蓋故の如し   芻蕘に詢る  

故事成語③ (新星出版社)で意味の不明な所


 故事成語③ (新星出版社)で意味の不明な所

ここで扱う故事成語

良賈(りょうこ)は深く蔵(ぞう)して虚(むな)しきが如(ごと)し  人の牛蒡で法事する  舐犢の愛   合羽着て撫でても見たき柳かな   まず黍(キビ)を喰らい、後に桃を喰らう   玉を食らい桂を炊ぐ   杵で当たり杓子で当たる   身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり   朝鳶に蓑を着よ、夕鳶に笠をぬげ    猫の歯に蚤   白圭のかけたるは尚磨くべし  空谷の跫音



良賈(りょうこ)は深く蔵(ぞう)して虚(むな)しきが如(ごと)

《「史記老子伝から》すぐれた商人は品物を奥深くしまっておき、一見すると手持ちがないように見える。賢者は学徳をみだりに外に現さないため、愚者のように見えるということのたとえ。



人の牛蒡で法事する(ひとのごぼうでほうじする)
 
 他人の牛蒡ごぼうを材料に精進料理を作り、法事のもてなしをする。他人のものを利用して、自分の義理を済ませることのたとえ。 


舐犢の愛(しとくのあい)

 親が子を溺愛することのたとえで、親牛が愛情表現として孔子をなめて可愛がることから。「舐」なめる。「犢」子牛。

合羽着て撫でても見たき柳かな(かっぱきて なでてもみたき やなぎかな)
 雨に濡れている柳は良いものだ、合羽を着てでもそばへ行って撫でてみたい・・・

まず黍(キビ)を喰らい、後に桃を喰らう
・先に不味いキビを食べてから甘い桃を食べる。(このほうが余計に桃の美味さが感じられる・・・ということか)

玉を食らい桂を炊ぐ(読み:たまをくらい、けいをかしぐ。桂を「けい」と読むのか「かつら」と読むのかは不明)
【食玉炊桂】(しょくぎょくすいけい)
生活の必需品である薪の値段が高級な桂よりも高く、食料の値段が宝玉よりも高い都で生活していく者の苦しみ。
物価の高い都会で生活する苦しさの喩え。
また、地方から都会に出て来て苦学することの喩え。
 類:●桂玉之艱●桂玉之地●都門桂玉
 出典:「戦国策−楚策」「今令臣食玉炊桂、因鬼見帝」 

杵で当たり杓子で当たる(きねであたり しゃくしであたる)

 さんざんに当たり散らすことで、何にでも八つ当たりすること。
何にでもやつあたりすること。
八つ当たりすること。
「杵に当たり臼に当たる」とも。
類語として、杵に当たり臼(捧)に当たり。
身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり

身体(しんたい)髪膚(はっぷ)これを父母(ふぼ)に受くあえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり 
《「孝経」から》人の身体はすべて父母から恵まれたものであるから、傷つけないようにするのが孝行の始めである。
朝鳶に蓑を着よ、夕鳶に笠をぬげ(あさとびにみのをきよ、ゆうとびにかさをぬげ)

 朝、鳶が鳴くのは雨が降る前触れで、夕方に鳶が鳴くのは晴れる前触れだということ。
猫の歯に蚤(ねこのはにのみ)

【意味】猫が蚤を取ろうと歯で噛もうとするが
なかなか捕まえられない、ということから、
不確実なこと、めったに成功しないこと。
また、まぐれ当たりのたとえ。

白圭のかけたるは尚磨くべし

白圭尚可磨 
なにげないその一言が、相手を傷つけてしまうことがあります。
言葉は選んで慎重に、失言しないようにしましょう。

禅語にもそれを戒める句があります。

白圭尚可磨
白圭 なお磨くべし、と読みます。
白圭は白く清らかな玉(ぎょく)であるけれども、たゆまず精進して磨くべきである、いわゆる「時々勤払拭」と同じような意味で解釈されがちですが、本来は、五経の「白圭之玷、尚可磨也 斯言之玷、不可為也」からきています。
白圭の欠けたるは、尚磨くべし。この言の欠けたるは、おさむべからず。と読みます。
意味は、白圭の欠けは磨けば元に戻るけれども、失言は取り返しがつかない。大いに言葉は慎まなければならないということです。

茶会で、本来の句の意味をご存知の席主がこの「白圭尚可磨」の一行を掛けられたら、うかつにはしゃべれません。
でも、もっぱら前者の意味で使用されていますから、そんなに気にしなくてもいいかも。
  直心軒お茶三昧 より

出典:『詩經』大雅の抑の篇
原文:「白圭之〓(王占)、尚可磨也、斯言之〓(王占)、不可為也。」
読み:白圭の(王占)けたるは、なお磨くべし、この言の(王占)けたるは、為(おさ)むべからず
意味:
白い玉の欠けたのは、また磨けばいいが、言葉を誤ると改めようがない

珪(けい);圭の古字。玉。〓(王占)(てん);欠ける。玉のきず。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1335364423 


空谷の跫音(くうこくのきょうおん)

空谷の跫音とは、退屈でさびしい暮らしを送っているところに、思いがけなく人が訪れたり、嬉しい便りがきたりすること。 




 
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 漢字検定 採点 変だ! 怒怒怒!! 令和2年1月20日


2014年3月11日火曜日

故事成語②(新星出版社)より不明な点を自分なりに調べてみた。


故事成語②より不明な点を自分なりに調べてみた。

この項目に出て来る故事成語

瑾瑜は瑕(きず)を匿(かく)し、 
国君は垢(はじ)を含む   両葉去らずんば斧柯を用うるに至る   凱風南よりして彼の棘心を吹く   槿花一朝の夢   倹約と吝嗇(りんしょく)は水仙と葱(ねぎ)   端倪すべからざる    瑾瑜は瑕(きず)を匿(かく)し、 
国君は垢(はじ)を含む   三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。その無に当たりて、車の用あり。  




瑾瑜は瑕(きず)を匿(かく)し、 
国君は垢(はじ)を含む 

瑾瑜匿瑕 (きんゆ とくか):
 すぐれた才のある立派な人物でも小さな弱点くらいあるもので、問題にはならないということのたとえ。
「瑾」と「瑜」はどちらも美しい宝石の名前。
「瑕」は傷やひびという意味から、弱点や欠点のたとえ。
全体が素晴らしい宝石に小さな傷があっても、価値は下がらないという意味から。
「瑾瑜、瑕を匿す」とも読む。


きれいな宝石にも小さな瑕があり、君主にも垢があります。 小さな欠点にこだわってはいけませんよ)」から、名前(瑜)と呼応させている
周瑜(周公瑾) > 孫権に宛てた遺書)


 「十五年春、公孫帰父は楚子と宋にて会す。宋人は楽嬰斉をして晋に急を告げさしめる。 
晋侯は之(これ)を救わんと欲す。

 伯宗は曰く、不可なりと。古人の言に有りて曰く、 
鞭の長きと雖も、馬の腹に及ばず。天は方(まさ)に楚に授くに、未だ与(とも)に争う可からず。 
晋の彊(つよ)きと雖も、能く天に違わん乎。

 諺に曰く、高下は心に在りと。 
川沢は汚(けが)れを納()れ、山藪は疾(きず)を蔵(かく)し、瑾瑜は瑕(きず)を匿(かく)し、 
国君は垢(はじ)を含むは、天の道也(なり)。君は其れ之を待てとし、乃ち止む。」


「宣公十五年の春に、魯の公孫帰父は楚の荘王と宋で会いました。宋側は楽嬰斉をつかわして 
宋の急をつげさせました。晋の景公はこれをたすけてあげようとしました。

 部下の伯宗は、 
「いけません」といいました。「昔の人は、どんなにムチが長くても、馬の腹までは 
とどきませんといっています。天がまさに楚の味方をされているときに、いっしょになって 
戦争をしてはいけません。晋がいくら強くても、天にはさからえないのです。ことわざでも、 
たかいひくいは心が決めること、といいます。

 川や沢にはきたない泥水もまざっており、 
山や藪はおそろしいわざわいを内包しており、すばらしい宝玉も小さなキズを隠しており、 
国の王さまもときには恥をのむことは、天にきめられたありかたなのです」。 
(伯宗がこう言ったので、晋の景公は)救援をだすのを中止しました。」



両葉去らずんば斧柯を用うるに至る
(りょうばさらずんばかふをもちうるにいたる)

禍(わざわい)の種子は、
小さいうちに取り除いておかないと大変なことになる。 
転じて、禍(わざわい)は大きくならないうちに除かないと、後の処置が困難になる。




 類:●両葉去らずんば斧柯を用うるに至る

 出典:「六韜−守土」「両葉不去、将用斧柯」





凱風南よりして彼の棘心を吹く  
 (がいふうみなみよりしてかのきょくしんをふく)

 母親が愛情を持って子供を温かく見守り育てることのたとえ。

 「凱風」万物を成長発育させる暖かい南風で、母の慈愛を表す。「棘心」棘のあるいばらの木の芽生えで、手のかかる子を表す。

このことわざの出典 詩経



槿花一朝の夢 きんかいっちょうのゆめ

〔白居易「放言」の「松樹千年終是朽,槿花一日自為レ 栄」から〕
この世の栄華のはかないことのたとえ。槿花一朝の夢。


 その詩では、「松樹千年終(つい)に是(こ)れ朽(く)つ」(千年の松の木でもついには枯れる)と対句になっていて、槿の花のようにはかないものでも、一日の間は栄える、という用い方になっている。

 また、「小人(しょうじん)槿花の心」(孟郊の詩)と、変わりやすい心をたとえるのもある。
 いずれにせよ、得意満面時めいていても長くは続かない。槿花一朝、冷たい風が身にしみるようになる。

全国漢文教育学会長
石川 忠久

http://www.minyu-net.com/serial/yoji-jyukugo/yoji0216.html




倹約と吝嗇(りんしょく)は水仙と葱(ねぎ)

無駄遣いしないことと過度に物惜しみすることとは、水仙と葱のようによく似ているが、実態はまったく異なるものであるということ。

倹約と吝嗇
               「倹約と吝嗇は水仙と葱」という。倹約することと、けちとは、水仙と葱のように似通うところがあるようで、実はまったく違うという意味である。
                
               貝原益軒の次の言葉は、両者を分けて明確である。「身に奉ずること薄きを倹約とし、人に奉ずること薄きを吝嗇とす」
                
               倹約については、伊達政宗がおもしろいたとえをしている。「倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり、この世に客に来たと思えば何の苦もなし。朝夕の食事は、うまからずとも誉めて食うべし。元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい」
                
               「出すのは袖から手を出すのも嫌だ」というほどの旦那なのに、なんと今朝の味噌汁には実が入っている。使用人たちが喜んで椀の中の実をつまもうとするが、できない。汁が薄すぎて、自分の目玉が映っていたのだ。屋号が吝嗇屋、名前が吝兵衛という落語「味噌蔵」の主人は留守中、使用人たちに仕出しを頼んでどんちゃん騒ぎをされてしまう。
                
 倹約は美徳だが、吝嗇となると“我利我利亡者”として爪はじきされるか、落語のネタにされるのがオチだろう。倹約家といわれても、吝嗇家とはいわれたくない。



端倪すべからざる たんげいすべからざる

はじめから終わりまでを安易に推し量るべきでない、推測及ばない計り知れないといった意味で用いられる表現。「端倪」は物事のはじめとおわりを意味し、全体把握推測することをも意味する表現

たん‐げい 【端×倪】
[名](スル)《「荘子大宗師から。「端」ははじめ、「倪」はおわりの意》
物事初めと終わり。事の始終
物事の本と末、終わりと始めを推しはかること。あらかじめ予想すること。推測。「この子の才能には―すべからざるものがある」



瑾瑜は瑕(きず)を匿(かく)し、 
国君は垢(はじ)を含む 

 きれいな宝石にも小さな瑕があり、君主にも垢があります。 小さな欠点にこだわってはいけませんよ)」から、名前(瑜)と呼応させている
周瑜(周公瑾) > 孫権に宛てた遺書)


「十五年春、公孫帰父は楚子と宋にて会す。宋人は楽嬰斉をして晋に急を告げさしめる。 
晋侯は之(これ)を救わんと欲す。伯宗は曰く、不可なりと。古人の言に有りて曰く、 
鞭の長きと雖も、馬の腹に及ばず。天は方(まさ)に楚に授くに、未だ与(とも)に争う可からず。 
晋の彊(つよ)きと雖も、能く天に違わん乎。諺に曰く、高下は心に在りと。 
川沢は汚(けが)れを納()れ、山藪は疾(きず)を蔵(かく)し、瑾瑜は瑕(きず)を匿(かく)し、 
国君は垢(はじ)を含むは、天の道也(なり)。君は其れ之を待てとし、乃ち止む。」

「宣公十五年の春に、魯の公孫帰父は楚の荘王と宋で会いました。宋側は楽嬰斉をつかわして 
宋の急をつげさせました。晋の景公はこれをたすけてあげようとしました。部下の伯宗は、 
「いけません」といいました。「昔の人は、どんなにムチが長くても、馬の腹までは 
とどきませんといっています。天がまさに楚の味方をされているときに、いっしょになって 
戦争をしてはいけません。晋がいくら強くても、天にはさからえないのです。ことわざでも、 
たかいひくいは心が決めること、といいます。川や沢にはきたない泥水もまざっており、 
山や藪はおそろしいわざわいを内包しており、すばらしい宝玉も小さなキズを隠しており、 
国の王さまもときには恥をのむことは、天にきめられたありかたなのです」。 
(伯宗がこう言ったので、晋の景公は)救援をだすのを中止しました。」



三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。その無に当たりて、車の用あり。

車輪というものは三十本の輻()が真ん中の轂(こしき)に集まって出来ている。その轂に車軸を通す穴があいているからこそ車輪としての用を為すのだ。(老子)

もう少し詳しく・・・

漢字を学び心を育む より






コク
こしき、くるま、あつ(める)、しめくく(る)、お(す)

【解字】形声。車+殻。音符の殻コクは、中空が「から」の意味。車軸を囲むように中空になっている部分、こしきの意味を表す。

1.    こしき。車輪の中央にあり、軸を通して、や(輻フク)の集まっている所。

2.    車。車両。

3.     あつめる。しめくくる。
<新漢語林より>



まずは、用語の説明から。

「轂コシキ」とか「輻ヤ」は、牛車ギッシャを構成する部品の一つである。




 



 轂=ハブ(hub)、中枢、集線

 輻=スポーク(spoke)




図書館で白川静先生の「字統」で調べてみる。

 

 形声。声符は殻。殻は脱穀したのちの殻で、中の空虚なものをいう。


 「輻ヤの湊る所なり」という。車軸の輻の集るところは轂。
 [老子、第十一章]「三十輻プク、一轂コクを共にす。其の無なるに當りて、車の用有り」

 その虚中のゆえにはたらきをなすものであるから、
 とあり、轂中空虚にして、回転が可能であることをいう。



 

 形声。声符は畐。「輪轑リンレウなり」とあり、車輪の中の矢の意である。
 [周礼、孝工記、輈人]に「輪の輻三十、以って日月に象るなり」とあり、放射状の輻によって、車輪を支える。車轂のところにそれが集中するので、四方より物資などが集ることを輻湊、また輻輳という。



なるほど、これでやっと下の熟語の意味がわかりました。


輻輳 ふくそう

ものが一ヶ所に集中して混雑している状態のこと。IT分野では、電話回線やインターネット回線において利用者のアクセスが特定の宛先に集中することにより、通常行えるはずの通話・通信ができなくなる状況を指す。俗に「回線がパンクする」と表現される状態。




原典

三十輻共一轂。  三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。
當其無、有車之用。 その無に当たりて、車の用あり。
埏埴以爲器。 埴(つち)を埏(こ)ねて以(も)って器を為(つく)る。
當其無、有器之用。 その無に当たりて、器の用あり。 
鑿戸牖以爲室。  戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以って室(しつ)を為る。
當其無、有室之用。 その無に当たりて、室の用あり。
故有之以爲利、無之以爲用。  故(ゆえ)に有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。

車輪というものは三十本の輻()が真ん中の轂(こしき)に集まって出来ている。
その轂に車軸を通す穴があいているからこそ車輪としての用を為すのだ。

器を作るときには粘土をこねて作る。
その器に何もない空間があってこそ器としての用を為すのだ。

戸や窓をくりぬいて家は出来ている。
その家の何もない空間こそが家としての用を為しているのだ。

だから何かが「有る」という事で利益が得られるのは、「無い」という事が影でその効用を発揮しているからなのだ


伊勢白山道氏の解説

*空を知る者は、「成す」ことが出来ます 
つまり、色んな物が生きて役立つのは、そこに「空」が存在するからなのです。
これは物だけではなくて、人間も含めた森羅万象すべてに言える真理(道)なのです。
だから心に「空」を心掛ける者、この道理を知っている者は、自由自在に生きられます。
原文

(感想)
この十一章は、普通は簡単だと学者には思われるかも知れません。普通のアタリマエの道理を老子が言ったと思われるでしょう。
しかし私には、感動的な真理を老子が伝達していると感じます。
これこそは、空海がその生涯を懸けて言いたかった真言密教の真理の根本です。
老子はいとも簡単に、密教の真理を開陳しています。

老子は、世の中の物事が上手く回ること、人間が便利に生きられること、そこには見えない存在・・・空、犠牲者、影の功労者、名も無き者たち、・・・・「見えないお蔭様」が存在することを知りなさい、と言っています。

また、「陰」=影=無=何も無いこと、があるからこそ「陽」=存在するのです。
陽・陰思想とは言わずに、陰・陽思想と呼ぶのは、先に「陰」が必要なのです。
もっと砕いて言えば、要は貧乏ならば、後は金持ちに成れるのです。

いや、そんなことは無い、そんなバカな甘いもんじゃない、と誰もが思うでしょう。
しかし老子が、「何も無いということを深く心底認識すれば、人間ならば後は頑張るしかないでしょう」
と言っているようにも感じます。
もし、貧乏が嫌で奮起して頑張って、わずかでも何かをその人が得れば、
「それは最初に貧乏が存在した御蔭でもあるわけです」。

つまり老子は、「君たちは、何もないこと、空の“有り難み”に気付いているのかね?
それを本当に認識すれば、無が生きて有に転ずるのだよ。無から有が生じるのです。」
また、
「人間は、心を空・カラにして生きなさい。心がカラならば、あとは知恵が入って来るしか無いのです。
自分の心を悩みで満たしていれば、良い考えが入って来られません。」
このように私には響いて来ます。
無心で居れば、心身が強く成るのです。
悩み過ぎて、悩みで心を満たしていては、何も良いことがありません。
「柔よく剛を制す」と言うように、無心は、その人間にとって最善を起こします。
無心で、目の前の出来ることを頑張りましょう。

生かして頂いて ありがとう御座位ます