2014年4月18日金曜日

平成22年第3回  読み 3の3(21−30)


平成22年第3回  読み 3の3(2130

21)異国の風に倣う。  なら

【なら】 広辞苑には「慣らう・倣う」の見出しで載っている。倣の字は模倣の倣だったかな(当然です)などと考えてしまった。


22秣場に荷車を運び入れた  まぐさば

【秣場】
【まぐさば】 秣を集める場所。転じて、一定地域の住民が共同で使用する山林原野。


23雲端にる心地がする。  つちふ-る

【霾】る
【つちふ】 広辞苑には「土降る」の見出しに、大風に吹き上げられた土砂、特に黄砂(こうさ)が降る。霾(つちふる)。〔季語=春〕奥の細道「雲端に心地して」、とある。

難しい漢字ですねえ。
霾の音はバイ、マイ。音符は貍()(マイ)」。埋と同じマイの音です。マイバイと連想で覚えようか。

熟語では、
【霾翳】(バイエイ )まきあげられた土砂が空をおおって暗いこと。
【霾霧】(バイム )まきあげられた土砂と、霧。また、そのために暗くなること。

出典「奥の細道」

雲の端から土ぼこりが降ってくるような気持ちがする意。

動詞ではなく、名詞の場合。

「猛烈なりで昼でも暗い。」

つちぐも・り

過去問で訓読みだったものが、新たに音読みの問題になるパターン。

「黄砂が全土の上空を霾翳した。」  ばいえい




24弓弭の調を献上する。  みつぎ

弓弭の【調】を献上する。
【みつぎ】 広辞苑には「みつぎ」は「貢・御調・調」の見出しとなっている。また以下の相対する2つの見出しがある。言葉は歴史と密接に関連しているね。

「弓弭の調」(ゆはずみつぎ)=大和朝廷時代の伝説上の男子人頭税。弓矢で獲た鳥獣などが主な貢納物だったからいう。
「手末の調」(たなすえみつぎ)=調の一。女子が布帛を織って献じたもの。

ゆみはず 【弓×弭/弓×筈/弓×】:弓の両端の、弦の輪をかける部分。弓を射るとき、上になる方を末弭(うらはず)、下になる方を本弭(もとはず)という。銑(つく)。ゆはず。

はず【×筈/×弭/×彇】
弓の両端。弓弭(ゆはず)
矢の端の、弓の弦につがえる切り込みのある部分。矢筈(やはず)

相撲で、親指と他の指を広げ、矢筈の形にした手。これで相手のわきを押しつけて攻める。「―にかかる」「―押し」
《矢筈と弦とがよく合うところから》

 ㋐当然そうなるべき道理であることを示す。また、その確信をもっていることを示す。「君はそれを知っている―だ」「来ない―はない」

 ㋑その予定であることを示す。「今日届く―になっている」

筈が合わぬ
《弦に矢筈(やはず)が合わない意から》調子が合わない。
「請け出され、人の妻となって―◦ず」〈浮・禁短気・二〉


25当年の儁豪であった。  みな

【咸】当年の儁豪であった。
【みな】 「咸」の読みは「カン、みな、ことごとく」。

「儁」の類義語は「俊」。
「俊豪」(しゅんごう)=常人より器量のすぐれた人物



26を切って聖に随った。  もとどり

【髻】を切る。
【もとどり】 広辞苑でこの関係の見出しを調べると、
「髻」=(「本取」の意) 髪を頭の頂に束ねた所。また、その髪。たぶさ。
「髻を切る」=出家する。
「髻の綸旨(りんし)」=南北朝時代、敵に知られないように小紙片に細書し、使者の髻の中に隠して持たせた綸旨。
「髻を放つ」=冠などをかぶらず、髻をあらわに出す。

「髻」の訓読みにはその他に「たぶさ」「みずら」があるが、正解とするか不明。

角子(みずら)






「髟」かみがしら、かみかんむりの中でも数少ない音読みトラップ漢字。

「仏像のが薄明りの中で輝いている。」
 

ほうけい


「きち」ではなくて「けい」。



随った 読み方:したがった



27老躯をげて御前試合に臨む。  ひっさ

老躯を【挈】げて試合に臨む。
【ひっさ】 「ひっさげる」は他の表記では「引っ提げる・提げる」。

「挈」の音は「ケツ」。熟語を漢字源で調べると、

【挈瓶】(ケツベイ )手でさげる小さなかめ。ちっぽけなもののたとえ。

【挈瓶之知】(ケツベイノチ )わずかな才知。小知。〔左伝〕

【右挈】(ユウケツ )右手にぶらさげる。右手で引き連れること。「左提右挈(サテイユウケツ)(左右に子ども・部下などを引き連れていくこと)

【提挈】(テイケツ )互いに手をとりあって行く。



【挈】 10画 6) 1

[音]
ケイ

ケツ
[訓]
ひっさげる

《意味》
ひっさげる。ひっかけて持つ。たずさえる。

【挈げる】ひっさげる
手に引っかけて持つ。
「カバンを挈げて歩く」
「引っ提げる」とも書く。

【左提右挈】さていゆうけつ
互いに提携して、援助し合うこと。

【提挈】ていけつ
1.    引き連れること。たずさえること。
2.    助け合うこと。



28人、之を知る者なり。   まれ

人、之を知る者【罕】なり。
【まれ】 論語に「子、罕に利を言う、命と仁と。」(先生は利益と運命と仁とのことは殆んど語られなかった。)とある。

「罕」の読みは「カン、まれ」。

 熟語には、
【罕漫】(カンマン ) はっきりしないさま。いいかげん。

【罕儔】(カンチュウ ) 同類がすくない。比類まれである。



29る時は則ち人の我を道う。  はなひ

【嚔】る時は則ち人の我を道う。
【はなひ】 問題文の「道う」は「いう」。(読みにくいねえ。)
「嚔」の読みは「テイ、くしゃみ、はなひる」。熟語は、
【噴嚔】(フンテイ ) くしゃみ。
熟語はこれを覚えれば十分だな。それにしても「嚔」の字体は特殊で、非常に書きにくい。


道うこと

この読みを教えてください
「とうこと」でしょうか?
原文は
~、余が為に之を道うこと、~。
でした。

「道う」は「いう」(=言う) と読みます。
漢文では普通の使い方です。


 有名な廣瀬淡窓の詩に、
「道()うを休()めよ、他郷、苦辛多しと」
とあります。

 禅宗の語録に「道え道え」(さあ、言ってみろ) 、「且(しばら)く道え」(ちょっと言ってごらん) などの表現が見えます。



 一般の熟語でも、「報道」「唱道」「道破」と言うときの「道」は「言う」の意味ですね。

余分なことかも知れませんが、上の回答に引かれた説明は間違っています。
「言語道断」の「言語(ごんご)」は「言葉に表して述べる」こと、「道」は文字通り「みち」で「方途」、英語の「way」です。


 つまり、「言語の道、断えたり」で「言葉にして言い表しようがない」の意になるので、そこでは「道」≠「言う」です。
『広辞苑』第一版では「言語では説明する道のたえたこと」としています。
参考URL、二つ目の辞書も同様です。
http://www.geocities.jp/sybrma/82hirosetansou.kanshi.htmlhttp://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=%B8%C0%B8%EC%C6%BB%C3%C7&stype...




30南山をぐと雖も猶隙有り。  ふさ

南山を【錮】ぐと雖も猶隙有り。
【ふさ】 「錮」の読みは「コ、ふさ-ぐ」。刑罰の「禁錮(キンコ)」でよく見かける文字だ。

熟語では、
【錮疾】(コシツ ) なかなかなおらない病気。
【廃錮】(ハイコ ) 官吏の身分をとりあげて、家で謹慎させる。


雖ども(いえども)

雖 音読み スイ 訓よみ いえど(も)

出典
資治通鑑巻第一百九十四
 唐紀十
  太宗文武大聖大廣孝皇帝上之下
 11丁巳,詔:「山陵依漢長陵故事,務存隆厚。」期限既促,功不能及。秘書監虞世南上疏,以爲:「聖人薄葬其親,非不孝也,深思遠慮,以厚葬適足爲親之累,故不爲耳。昔張釋之言:『使其中有可欲,雖錮南山猶有隙。』劉向言:『死者無終極而國家有廢興,釋之之言,爲無窮計也。』其言深切,誠合至理。伏惟陛下聖德度越唐、虞,而厚葬其親乃以秦、漢爲法,臣竊爲陛下不取。雖復不藏金玉,後世但見丘壟如此其大,安知無金玉邪!且今釋服已依霸陵,而丘壟之制獨依長陵,恐非所宜。伏願依白虎通爲三仞之墳,器物制度,率皆節損,仍刻石立之陵旁,別書一通,藏之宗廟,用爲子孫永久之法。」疏奏,不報。世南復上疏,以爲:「漢天子即位即營山陵,遠者五十餘年;今以數月之間爲數十年之功,恐於人力有所不逮。」上乃以世南疏授有司,令詳處其宜。房玄齡等議,以爲:「漢長陵高九丈,原陵高六丈,今九丈則太崇,三仞則太卑,請依原陵之制。」從之。

丁巳、詔が降りる。
「山陵は、漢の長陵(漢の高祖の陵)の故事に依り、つとめて厚く盛り上げよ。」
 期限を定めて督促し、どんなに努力しても追いつかない。秘書監の虞世南が上疏した。
「聖人が親を薄く葬るのは、不孝ではありません。深思遠慮いたしますと、厚葬は親を害するだけですから、薄く葬るのです。昔、張釋之が言いました。『墓の中に宝物を山と入れておけば、南山を重石にしたところで、必ずこじ開けられてしまいます。 劉向も言いました。『死者は永遠に死にっぱなしですが、国家には興廃がある。国が滅んだ後は、誰も墓を守ってくれない。釋之の言葉は、無窮の計略です。』その言葉は深く切実で、まったく道理にあっております。陛下の聖徳は聖君たる唐・虞を越えていますのに、その親へ対しては、秦や漢を手本として厚葬しております。臣は、陛下の為を想って、これを採らないのです。喩え金玉を副葬しなくても、後世の人が丘のような墳墓を見れば、どうして中に財宝がないなどと思いましょうか!それに、今、服喪は覇陵に依りました(漢の文帝と同じく、三十七日の喪に服した)のに、陵だけは長陵へ依る。これは宜しくありません。どうか白虎通(後漢の班固等の著作物)に依り、三仞の墳とし、器物制度も皆節約し、陵の傍らには石碑を刻み、別に一通の書を宗廟へ蔵して子孫永久の法としてください。」
 疏は奏されたが、返事はなかった。そこで世南は、再び上疏した。

「漢の天子が即位してから山陵を造営するまで、五十余年の歳月が流れています。今、数ヶ月の間に数十年の功を立てようとしていますが、これでは人民が耐えられないことを畏れます。」
 上は、世南の疏を役人へ渡して、適宜な処置を衆議させた。房玄齢等が議し、言った。
「漢の長陵は高さ九丈、原陵(後漢の光武帝陵)は高さ六丈。今、九丈は祟すぎ、三仞は卑しすぎます。原陵の制に依りましょう。」
 これに従う。


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謝辞
 このブログは、自分のお勉強のために作ったものです。あちらこちらのホームページやブログから気に入った記事をコピーペーストとして作ったものです。作る過程で非常に勉強になりました。
 とにかく分からないことだらけですので、自分なりに大量にいろいろな記事を使っております。それらの記事をお書きになった各位には本当に感謝しております。
 特に新潟漢字同好会様のブログ http://nkd-dogu.blogspot.jp の記事を多く参考にさせて戴きました。改めて感謝申し上げます。
 また、One On One 様、めざせ漢字検定一級 様、 漢字の大海 様 などの記事も要所要所で使わせて頂きました。感謝申し上げます。

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